最近人との縁というものをよく考えるようになりました。
というのも自分の親を見ていてつくづく思うことがあったから。
「気づいたら身内が、○さんと□さんしかいなくなってたんだよね」
もちろん友人もどんどん亡くなっていくし、足もないから出かけることもしない。
それでも、町内の演奏ボランティアがあって、毎月区長が迎えに来るらしい。
「やってもらわなければ困るから迎えに行きます」
だそうです。
そのおかげでボケてもいられない。
そういう人のために何かやれるというのは、年齢にかかわらずうれしいですよね。
自分もあてにされてこれを作ってほしいとか頼まれごとを言われれば、自分の都合そっちのけでつくるタイプ。
喜んでくれるのがうれしいからですね。
ボケてられないという親ですが、以前は季節ごとにいろいろなものを作っては人にあげてました。
「いろいろなものを作っては欲しいという人に上げていたんだけどさ、ビンは返してね、と言っても戻ってくるのは1/3くらいだったかねえ。
毎年買ってたから、今考えてみると大盤振る舞いだったかねえ。
お返しをもらうから、今度は違う物を、と思っていたけどね。
そういうやり取りも今はなくなったねえ。」
つくるのも大変だっただろうに、それよりも作ったものを美味しいと言ってくれる人にあげる喜びだけで夜な夜な作っていた。
両親ともフルタイムワーカーだったから平日もそれをやりながら大変だなあと思ってみていたんです。
昔の人はそうやって作ったものの価値をわかっていたんでしょうね。
確かにあれを今お店で買えば、ひと瓶1,000円では買えない。
いや、売ってないなあ。
保存料ナシ、添加物ナシ、原材料と調味料のみ。
そんな商品売ってないですからね。
そりゃ、美味しいわけですよ。
あの時に食べた味は、残念ながら市販品で出会ったことはないです。
もう一度食べたいものですね。
そういうやり取りをしていた親を見ていて、人とのつながりの大切さと人のズルさを見たような気がします。
自分もいいように使われてしまっていたと気づいたことが過去にはあります。
仕事でもプライベートでも。
それに対して何か恨み節のようなことを思うことはありません。
ひとつ思うことがあるとすれば、「自分はしない」ということ。
決して。
そして、そういうことから学んだのは、人の縁というのは必要な時につながるもので、不要になったら切れるものなんだなあということ。
これはよく言われることですよね。
人によったら、それがイヤでつながっていようとしますが自分はしません。
「あ、お互い要らなくなったんだ。」
と思います。
それも心がそういうので、スッキリしています。
反対にもう一度つながろうとすると、とてもモヤモヤして我慢できなくなるんです。
不思議ですよね。
これは試したことがあって、自分の気持ちがどう反応するのか。
仕事でもプライベートでもやってみましたが、仕事の方はメンタルが壊れました。
プライベートのほうはとても気持ち悪くて、その場にいられないほどでした。
以前は居心地がよかった場所です。
信じられませんでした。
これが人との縁なのだと、そのときに心が教えてくれたように思います。
自分の心のままに生きる。
それが、前世から続く自分自身なのでしょう。
これは不思議なのことにプライベートの中でも絆とも言うべき家族にも起きます。
自分は最初信じられませんでしたが起きるんです。
何がそうさせているのかはわからない、言葉にはできないこの感覚。
突き詰めていくと僧侶にあって、いろいろ聴いてみたくなります。
もちろん、それで納得いく答えが出るかはわかりません。
不思議だなあと思う人の縁。
さあ、今日もいい1日にしよう!