この時期は本当に花がどんどん咲いていきますね💦
毎日新しい花を発見しては一喜一憂しています。
まず見つけたのはこちら。
西洋シャクナゲでしょうか。
きれいな大きな花が咲いていて玄関を明るくしていました。
そしてその先にはさらに目を引くおうちが。
これはボタンですよね?
自分が手を目一杯広げてもこんな感じです。
自分の手は大きい方だと思うのですが、全くかないませんでした。
自然の花がこれほどまでに大きく咲いて観てくれと言わんばかりに主張しています。
これは間近で見せていただかないといけないように感じてしまいました。
花は一年のうちのわずかな期間だけ咲きますよね。
最たるものはサクラですが、他の花も負けていません。
このけなげさに感動するのは年齢的なものでしょうか。
どんなことにも言えるのですが、その一瞬一瞬、もう少し広げれば今日という一日をどれだけ真剣に生きたか、の積み重ねで花は開くように思います。
手を抜いたりずるいことをしたらきっと花は咲きません。
また、咲こうとしている花に塩水をかけるようなことをしても咲かなくなってしまいます。
そう考えると花も人も懸命に咲こうとしている真剣さ、けなげさは応援したくなりますよね。
人の世界には、ひがみ、やっかみ、ねたみ、いろいろあって本当に煩わしいと思う時があります。
先日会社でそういうのが煩わしいという話になったときに、ある人が言いました。
「すべて修行だと思えば我慢できるんじゃないか」と。
試練というと辛いし、もっと大きなことが起きたときに心が折れるので、修行だと思えばいいんですよね。
とすればそれはありがたい、ことになります。
修行の場を与えていただけた、と。
しかし、与えられた修行が理不尽なものだったときにはいかがでしょうか。
あ、修行だから理不尽とか考えてはいけないのでしょうかね。
そんなことを考えていたら、なんとなく落ち着きました。
人は知らないうちに人を傷つけていることがあります。
いえ、故意に傷つける人もいます。
いずれにしても傷ついた人はその程度にもよりますが、忘れないんですよね。
でも、傷つけた側は必ず忘れます。
むしろたくさん傷つけていることにも気づいていなかったりしますね。
何ともやりきれないですが、そういうことが往々にしてあるように思います。
そういう時に思うんです。
「自分は同じことを人にしないようにしよう」と。
せめて自分が同じようなことをしなければ、それだけでも平和なはずですよね。
もちろん危険なことがあれば、大声も出しますし、怒ることもあります。
でも、それ以外では温和でいたいものです。
懸命に年に一度咲く花のように、その時のために虫に協力してもらい、土から水分や栄養をもらい、いろんな助けをもらいながらそれに応えるように懸命に咲く。
しょせん、人は一人では生きられません。
であれば、攻めて協力してもらえる人生にしたい、そう思います。
大きくなくてもいいから、きれいな花を咲かせたいものです。
さあ、今日もいい1日にしよう!