だまされやすいひと、いじめられやすい人、いじられやすいひと、ディスられやすい人・・・なぜかこういう人というのは存在します。
そういう人に聞いてみると、本人はまったくそんなつもりはない。
むしろ、なぜそうされるのかわからないと言います。
反対に、そういうことをする人に聞いてみたら、これもまた「理由はないなあ、なんとなく。」だそうです。
まあ、中にはそうされている人を見て、イヤそうでなかったから自分も同じようにしたという人もいました。
同調ですね。
いじられている人を見て、他の人が同じようにいじったとします。
そうした時にいじられている人は、「あなたにいじられる筋合いはない」と思っていたとしても言わないんですよね。
そうすると、そういう人のキャラクターになっていく。
自分のキャラ、わかっていますか?
高校のころ、時代はヤンキー全盛。
横浜銀蝿のまねをするようなヤンキーだらけでした。
そのころ、ひとりそういうものに染まらず、反対にとんがっている友人がいました。
カッコいいですよね。
ヤンキーの中にも世の中のことをよ~く見ていて、それに反発しているのもいましたね。
そういうのは変に筋が通っているから、斜に構えているように見えても言っていることは面白かった。
ディスられキャラもいましたが、それを武器にして柳のようにしなやかにしていたことを覚えています。
そういう連中が今では経営者や企業の中枢にいたりしますから面白いですよね。
先の”同調”という言葉。
この言葉を自分は好きではありません。
自分の意見があって同調しているならいいのですが、ただその流れが面白いからそっちに行ってみる、ようなものだと結局、あとになって自分には不満となって返ってくると思うんです。
自分の場合は、ですが。
人に合わせたり、ゆだねて生きていくのは楽なんです。
でも、自分の意見を持ち、それを主張した時に初めてそのことに対して評価されますよね。
良くも悪くも、です。
そうすることで自分の考えが正しいのかどうかを判断する軸もできてきます。
あるいは、何か始めようとするなら反対意見が多いからといってやめるべきではないかもしれない。
そのときに判断するのは、誰かが言ってくれた言葉です。
誰かが言ってくれたこと、主張してくれたことは尊いんです。
自分のキャラクターを理解して、発言するというのはとても大切なことだと思います。
まったく違うキャラを自分はイメージしていてモノを言っても、相手に響かないかもしれませんから。
ふだんいじられたり、ディスられたりしている人が、直球で何かを言うのもいいのですが、言い方を変えたほうが伝わるかもしれません。
その場の雰囲気で、自分がどう話せば一番伝わるのか。
そんなことを考えてみると面白いかもしれませんね。
さあ、今日もいい1日にしよう!