毎日生活していると、車で通勤できることがあたりまえ、目的地に着くのもあたりまえ、いろんなことがあたりまえになっています。
でも本当にそうでしょうか。
最近思うのは、ガソリンがこのまま上がっていったらこのあたりまえになってしまっている生活は崩れやしないか、ということです。
つまり、
あたりまえだと思っていることは、実はとてもありがたいこと
だということです。
そんな風に感じる出来事が過去にいくつもあります。
美味しいご飯を毎日食べられること。
日本ですからね、当然のように毎日ご飯を食べるわけです。
あたりまえのように、です。
ところが、米が不作だった年がありました。
現代において、米が不作になるなんて考えられませんでした。
記録的な冷夏が原因だったんですよね。
それでも日本人は米を食べる。
ではどうしたか。
タイなどの東南アジアからコメを輸入しました。
これは長粒種という、細長い種類でした。
日本にいたら見ない種類です。
現地では毎日食べている主食を分けてくれたんです。
米を食べられるということでさえありがたいのに、文句を言う人たちが多かったんですよね。
米の種類が違うし、調理の仕方が違うのでそういう米でなければ向こうの食文化には合わないわけです。
食べられるだけでありがたいので、文句を言ってはいけないはずです。
有難いという気持ちはどこかへ行ってしまうんですね。
それは、日本が何も考えずともスーパーへ行けばお米を売っているから、であってさらにそれが途絶えることなどなかったから仕方ないという面もありますよね。
あたりまえになってしまうことと似た言葉で”慣れ”がありますね。
毎日の出来事に慣れてしまう。
その人がそこにいることが普通になって、いろいろやってくれることに慣れてしまう。
この”慣れ”も自分の中ではこわいなと思います。
あたりまえに思うことと出来事などがそこに在ることに慣れてしまうこと。
同じようなことですが、どちらも感謝を忘れてしまう要素があるので要注意なんです。
その人がそこにいるのはあたりまえのことではない。
そういうことを教えてくれること、それはあたりまえではない。
そのことを頭の片隅に置いておけばいいんです。
忘れてしまったり、何かしてくれるのがあたりまえだから別に気にしない、というようになってしまうとある日それを失うことになったときに本当に困るんです。
今こうしていられることはあたりまえではない。
目の前にいる人、まわりにいる人たち、全てに1日に1度感謝したいものですね。
さあ、今日もいい1日にしよう!